中野ひろし プロフィール 詳細版
2028-04-08


1. はじめに

本稿は、私がどのような経験を経て政治家となり、どのような信念で活動してきたかをまとめたものです。政治や地域社会に関心を持つ方々に、現場での実体験や課題意識、そして変革への思いを伝えることを目的としています。

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2. 幼少期・家業での経験

1973年7月、大洲市常磐町に生まれました。家族はアイスクリームの卸売業と食料品店を営んでおり、私はその長男として育ちました。幼少期は大洲乳児保育所、喜多保育所、喜多幼稚園を経て、1980年に大洲市立喜多小学校へ入学。当時は団塊ジュニア世代で、児童数1,100名を超える南予一のマンモス校でした。1982年、家業の拡大に伴い東大洲へ転居しました。

3. 学生時代の学びと挫折

1986年、大洲市立大洲北中学校に進学。家業が最盛期を迎え、学校よりも家の手伝いに多くの時間を費やしました。父の運転する冷凍配達車で各地を回り、夜は松下寿電子大洲工場の売店で自動販売機の補充も担当。これらの経験を通じて、商売の現場や地域の地理を学びました。

1989年、愛媛県立大洲高等学校普通科に入学。中学時代は勉強に自信がありましたが、高校では授業についていけず、2学期から卒業まで非選抜クラス(バラ組)となりました。しかし、クラス室長には7回連続で選ばれ、教員との交渉力を身につけました。高校3年時には校則緩和運動に挑戦するも、挫折を経験します


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4. 大学時代の海外体験と地元への思い

高校卒業後、地元を見つめ直すため県外進学を希望。両親の反対を説得し、広島市の予備校で寮生活を送り、1年の浪人を経て同志社大学経済学部に入学しました。大学では「20代の感性で世界を体験しろ」という教授の言葉に刺激を受け、長期休暇ごとに中国、モンゴル、ベトナム、カンボジア、ミャンマー、インドなど十数カ国を一人旅しました。当時は円高で海外旅行がしやすい時代でしたが、旅を重ねるほど自分のルーツである大洲への思いが強くなりました。インド・カルカッタでマザー・テレサのミサに参加し、「まずは隣人に尽くしてください」という言葉に深く感銘を受けました。

22歳のとき、偶然テレビで「男はつらいよ 寅次郎と殿様」を見て、見慣れた大洲の風景の美しさに感動し、卒業後は地元で頑張ろうと決意しました。

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5. 就職活動と帰郷、政治への目覚め


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